牧師室より

上郷家庭集会では、パウロの書いた手紙のひとつである「コリントの信徒への手紙一」、本郷台集会では、「使徒言行録」が読み進められてきた。使徒言行録の後半は、ほとんどパウロ言行録と呼べるほどにパウロ中心に記されている。そういうわけで、しばらくパウロについて考える機会に恵まれてきた。

 私の勝手な想像だが、パウロという人は、回心前の厳格なユダヤ教徒として生きていた時代、異端者としてのナザレ派(つまりキリスト教徒)を排斥していた時には、常に厳しい表情を浮かべた人だったイメージがある。間違ったことは赦せない、そういう潔癖さのある印象だ。ところが、光を浴びて馬から転げ落ちて(?)、キリストの声を聞き、いろいろな意味で自分の中の何かが配置換えされた結果、以前と同じように精力的でありながら、逆境にあっても、どこか楽し気な顔ができる人になったのではないか。本当に勝手な想像なのだが、そんな印象を持つ。

 使徒言行録の描くパウロは、「弟子たちを力づけ、『わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました(使徒1422)」という。譲牧師は、信仰に踏みとどまるとは、恵みの中に居る、居続けるということだと解説した。伝道者として逆境にあればあるほど、エネルギッシュにそれに立ち向かうようなパウロは、確かに辛い時ほど神様の恵みを感じ取れる力を、回心によって授けられたのかもしれない。

 先週は、九条の会主催の浜矩子氏の講演を聞く機会を得た。選挙をめぐって悲観的な状況把握を述べる参加者に対して、でもいろいろなことがこれではっきりと見えて来たのだから、すっきりしたのではないか、とお答えになる浜氏には、力強さがあった。あとで参加者のお一人から、浜さんのお話を聞いて元気が出ました、という感想をうかがった。

時代が悪い方へ舵を切っていくような、嫌な予感がしてしまっていたが、逆境の中でも、ポジティブな乗り切り方を体現している人々もあることを心に留めたい。そこから、自分のありようを学びたいものである。 (中沢麻貴)