牧師室より

栗林輝夫氏の『日本で神学する』(新教出版社)を再び取り上げたい。

彼は、上記の著書と同名の論文で、米国留学中にドイツ人留学生に言われた言葉を紹介している。「ドイツ人が創った神学をアメリカ人は台無しにし、日本人はコピーする」というジョークである。この言葉に栗林氏は、「癪(しゃく)にさわったものの、あながち的外れでもなく、憮然(ぶぜん)とするほかなかった」と述べている。

 私は研究者ではないので、「憮然とする」必要もなく、興味深いジョークだと受け止めた。私がかつて学んだ、1980年代のT神学大学では、ドイツ神学が盛んであった。教授たちは、口を開けば「バルトだ」「ティリッヒだ」と語っていた。どこの牧師の書棚にも、バルト、ドストエフスキー、サザエさんが並んでいると言われた時代である。戦後すぐに、ドイツに留学した世代の影響によるものだろう。

 現在は、米国に留学する研究者が多くなっているようだ。なぜならば、翻訳書の多くが、米国発の論文だからだ。それらの論文から垣間見えるのは、米国自身が抱えている諸問題である。その諸問題を、吟味せずに持ち込んでも、またもや「コピーした」と言われるだけのように思う。

 なぜ、日本の神学が育たないのか。それは栗林氏も指摘しているとおり、教団紛争によって「吹き飛んでしまった」からだ。栗林氏は、現在のグローバル化社会をこう指摘している。「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(マタイ13:12)社会であり、世界のキリスト教は、否応ないグローバル化の中で変貌を迫られている、と。

 私たちが生きている、この日本社会の状況を見つめるだけでも、栗林氏の指摘はよく分かる。「教会派だ」「社会派だ」という利害関係から語ることをそろそろ止めて、自分たちの置かれている状況を真摯に受け止め、そこから聖書を読むことが必要なのだ。すでにそのような試みは、それぞれの現場ではじめられている。まずは、そうした試みを正当に評価することが、「コピー」から解放される道ではないだろうか。 (中沢譲)