牧師室より

 小学生の頃からファーブルの昆虫記が座右の書だった私にとって、1970年代は、「動物行動学」に熱中した時代だった。この分野の研究者であるK・ローレンツ、フォン・フィリッシュ、N・ティンバーゲンの三人がノーベル賞を受賞したのが1973年。動物の行動をとことん観察し、それを解析して謎解きする、という研究分野があることを知り、深く傾倒したものだ。

 いま、朝鮮半島をめぐる情勢が緊迫している中で、ローレンツの著書『攻撃―悪の自然誌―』を思い出す。ローレンツは、動物にとって「種内闘争」は、駆逐することは不可能な現象だとする。これをヒトという生物に当てはめて簡単に言ってしまえば、人間同士の競争や、相手に敵意をいだいて威嚇したり攻撃したりする衝動を、すっかり解消することは、生物である以上できません、という結論なのだ。しかし、動物たちは、相手を死滅させるまで闘争するかというと、そうではなく、実に様々な、それより穏健な方法を発達させてきた。外観の派手さや歌声、あるいは独創的に見えるパフォーマンスを競ったりすることで、実際に傷つけあうことなく、互いの関係性を確認する行動を進化させたのだ。ローレンツは、人間の場合のそれは、熱狂をスポーツのような殺傷を伴わない競争によって解消したり、緊張をユーモアのあるコミュニケーションにより引き起こされる笑いの中で緩和する、というような形で、発達させたと考えていたようだ。戦争回避は、理性による抑制だけではストレスがたまって不十分だと、ローレンツは指摘していると理解する。無秩序な攻撃と蹂躙に対する抑止力として、そうしたことを考察している『攻撃』の終章は、「希望の糸」というタイトルだったと記憶している。

 個体の攻撃性が最も発揮されるのは、生存に対する脅威に対してである。国家の場合はどうなのだろう、と考える。権力者は、自身の権力基盤が脅かされていると感じると、攻撃性が表出してくるようにも思うのだが、それが国家という集団レベルで同調を生むには、不安の共有ということが関係しているような気がする。誰か異なる立場の人で、一緒に笑ってくれそうな人をみつけることが、実は希望の糸となるかもしれないと妄想したりもする。ふと、ホセ・ムヒカ氏を想う。  (中沢麻貴)