牧師室より

子どもの頃から、里山歩きをしていて、キンミズヒキの花を見つけると、ああ夏も後半だな、センニンソウが咲くと、終わりが見えて来たぞ、そしてコナラの青いドングリがぷっくり膨らむのを見て、まあ秋も悪くないかも、などと思ったものです。今年は、そんな里山歩きを、夏のあいだに少しすることができました。

 子どもの頃から、教会で平和の大切さを教えられてきたように思います。夏期キャンプの日程が原爆投下の日に重なれば、朝食前に必ずそのことにリーダーが触れ、それから祈って食事しました。815日の平和聖日には、平和を作り出す働きをしている方々が講師として招かれた学習会が毎年ありました。靖国神社と信教の自由について学ぶ有志の会もありました。そうした中で、原爆のこと、差別のこと、基地のことなど、戦争の記録や平和を脅かす事柄について、夏休みは何かしら本を読むというふうに過ごしてきたものです。

 子どもの頃、戦争が始まる前にはどういうことがあったのか、どういう考えで人が動いたのか、それを経験してきた人々の話をしっかり聞き取って、同じことをしないように気を付ければ戦争は回避できる、という考えをいだいていました。

 でも、今はその難しさを思います。広島の平和記念公園にある広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の英訳文では、「繰返しませぬ」の主語は“we”です。私は、このことの当事者性をちゃんと自覚しているのか、引き受けているのかと、問われていると感じます。絵本『だれのこどももころさせない』(西郷南海子・浜田桂子)の中で、「ママは せんそうしないと きめた」という言葉に出会いました。「みんなで せんそうしないと きめた」までは2頁。「だれのこどももころさせない」までは6頁。Iからweへの道を、この絵本のように、しっかりたどりたいものです。

     (中沢麻貴)