牧師室より

 私たちは、礼拝の中で交読詩編を唱えています。司式者と会衆(礼拝出席者)が、交互に呼び交わす形で詩編の聖句を唱えています。現在、私たちの礼拝で使用される讃美歌は『讃美歌21』ですが、以前使われていた1954年版の『讃美歌』の後ろには、「交読文」が付録としてついていて、礼拝ではその中から選ばれた聖句を交読していたと思います。54年版の「交読文」には、詩編だけでなく、出エジプト記の十戒や預言書、新約聖書からも、交読に適した聖句が選ばれて収録されていました。

 レントやアドベントに、礼拝の中でイザヤ書が交読されると、イースターやクリスマスに向けて心備えができるので、交読が詩編だけになった時は、少々さみしい気もしました。しかし、『讃美歌21』出版と同時に編纂された現在の『交読詩編』の良い点は、司式者と会衆がそれぞれ朗誦する句が、よく吟味されており、ただ一行ずつ交互に唱えるというのではなく、旧約聖書の時代、神殿で祭司と会衆が呼び交わしあったり、歌いあったりしたであろう詩歌の形を、極力再現するよう考慮されて、句の区切りが示されている点です。また詩編の原文には、韻を踏んでいる表現などが多くあり、そうしたことは日本語への翻訳に反映させることは難しいのですが、それでも声に出してみことばを唱える伝統を継承しようという努力があるわけです。

 交読は、プロテスタント教会が生み出した、聖書のみことばによる「掛け合い型の賛美」であると説明されることがあります。それは、あえて表現すれば、アイドルのコンサートで、ファンクラブや親衛隊の人々が、歌の区切りに身振りも付けて合いの手を入れたり、プロ野球の試合で、打席に立った選手ごとに、応援コールをファンが声を合わせて叫んだり、そうした一体感の創出にも似た行為かもしれません。私たちは、古代の詩編の詩人以来、神様ファンクラブの一員として、声を合わせて神様を賛美しているというわけです。

カトリックにおいては、グレゴリオ聖歌(グレゴリアンチャント)など、聖句を歌う伝統が深いです。字が読めなくても、歌で聖句を覚えることはできます。プロテスタントの交読文は、音楽が苦手で歌えなくても、みんなで声を合わせて聖句を唱えることができます。 (中沢麻貴)