牧師室より

 月に二度、私がお話をさせていただいている「旧約を読む会」や、譲牧師担当の「入門講座」、そして家庭集会の場では、聖書の学びの中で、出席している皆さんが、実に様々な感想や連想、そして疑問を自由闊達に述べてくださいます。牧師にとって、それはとても大切な時間です。

 聖書のお話を聞かれた方々が述べてくださることを聞いているうちに、牧師の固定観念が打ち砕かれることもあり、お話の中で十分伝えたと思っていたことが全然伝わっていなかったことに気づかされたり、実は内心どうとらえればよいのかわからなかった点について、思わず膝を打つような素晴らしい着眼点を教えていただいたりもします。そうしたことはすべて、説教者としてお話を準備する時の、大切な肥やしになっていると感じ、皆さんのお話をうかがえることに感謝しています。

 「旧約を読む会」では、相変わらず蝸牛の歩みで「創世記」を読んでいますが、ようやくヤコブをめぐるくだりをほぼたどりきり、次回からは創世記終盤を飾るヨセフ物語に取り掛かります。

 八か月近くかけてヤコブの人生を皆さんと共にたどりました。ヤコブとエサウの兄弟には、双子という、これ以上ない近さの絆がありながら、ヤコブがエサウを欺き、エサウがヤコブに殺意を抱くという、関係の破たんが起き、両者は距離を置いて生きるしかない状況に陥ってしまいました。兄弟がそこから和解するには、実に二十年の歳月を要しました。そして、その和解へと兄弟を注意深く導いてくださったのは、神様だったことを創世記は示しています。聖書の中で、イスラエルというヤコブに神様が与えられた名を名乗る人々は、歴史の中で常にと言ってもいいほどいつも、近隣諸国、諸民族の人々との間で、紛争や憎悪の問題を抱えていました。けれども創世記は、彼らに向かって神様に導かれた和解の道を示しているように感じます。(創世記では、エサウはイスラエルの近隣の異教徒エドム人の先祖と理解されています。)ひるがえって、私たちの世界はどうでしょうか。そこに和解の道が神様から示されるまで辛抱強くあることが、私たちにできるでしょうか。ヤコブは生涯を通じて戦略家の面を持っていました。でも、それだけでは平和を実現することはできなかったのです。  (中沢麻貴)