牧師室より

 使徒言行録34章に、こんな逸話があります。エルサレム神殿へ入る門のそばで、神殿を訪れる人々に施しを乞うていた足の不自由な人に、ペトロが目を留めます。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いつつ手をとったら、その人は立ち上がることができ、躍り上がって神を賛美したので、大きな人だかりができました。ペトロたちは祈るために神殿に来たので、有頂天の男性も伴ってそのまま境内に入ると、一斉に人々が彼らの周囲に押し寄せました。そこでペトロは、イエスは救い主だと宣べ伝え、復活についても語ったようです。すると、神殿を管理警備している人々は、ペトロとヨハネを逮捕し、最高法院のメンバーによる取り調べが行われました。ペトロは、人々が目撃した病人の癒しは、「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」と、堂々と述べたと使徒言行録は伝えます。取り調べを行っていた議員たちは、ペトロとヨハネが「無学な普通の人であることを知って」驚いたとあります。

 さて最近、新聞・TVなどで「テロ等準備罪」の名称で取り上げられている組織犯罪処罰法改正案が、国会で審議中です。気になるのは、政府側の答弁で、この法律は「一般の人は処罰対象にならない」という趣旨のことが、繰り返されていることです。この法律が処罰対象としているのは、テロリストの集団や暴力団などの犯罪組織だというのです。「一般の人」と「犯罪集団」は、別だという理解が、そこからは感じとれます。

私は、子どものころから貧困や差別に痛めつけられて逃げ場がなく、暴力団しか生きる場所を見いだせなかった幼馴染の顔を思い出します。同じ分野で研究者を目指していた人がオウム真理教に入信し、やがて逮捕されたことも衝撃でした。私たちの社会が、「普通の人」を生きにくさで追い詰める時、そこに何かの「組織」が生じるのを感じます。追い詰めるものが裁かれず、追い詰められた者が処罰されるだけでよいのでしょうか。また、私たち自身が、誰かを追い詰めてはいないでしょうか。時代の空気が、とても重苦しいのを感じます。     (中沢麻貴)