牧師室より

 毎日、膨大な電子メールが届く。ほとんどタイトルしか読まないのだが、「新しい年に希望のあかりを!」というタイトルに思わずクリックしてしまった。タイトルには、続きがあった。「年末の寄付にご協力ください」とある。なるほど!人権団体、アムネスティ・インターナショナル日本からの年末の募金案内だ。

 実は、希望のメッセージを送ってきたのはどこの団体だろうかと、上から目線で思った次第。しかし分かって納得。すべての人に人権があると信じて活動している、アムネスティならではのタイトルであった。彼らの活動は確かに希望である。

 ところで、教会にとって、希望を語るのにもっともふさわしい時期はいつなのだろうか。本日からアドベント(待降節)がはじまったということもあるが、やはりイエス・キリストの誕生を待ち望む時こそが、希望を語るのにふさわしい時であるのだと思う。クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う時だと思われている。そのことは否定しないが、もう一つの意味がある。それはキリストの再来の時を待ち望む時、という意味だ。

キリストの再来について、聖書はこう記している。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」(マタイ24:42)。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)。

キリスト教会は、主の再来に希望を置いてきた。その意味でクリスマスとは、主の再来を待ち望む教会行事とも言えるのだ。「そのとき」が、いつであるのかは誰にも分からない。だからこそ「目を覚まして」いることが求められる。つまり、キリストの再来を待ち望む信仰とは、いつ、主のみ前に立たされても良いように日々を生きるということなのだ。たえず、「希望のあかり」を世に指し示し続ける役割を、私たちは与えられているのである。

 固いことは言わない。私たち自身が喜楽に満たされつつアドベント(待降節)を過ごせばよいのである。

      (中沢譲)