牧師室より

「旧約を読む会」では、カタツムリのようにジリジリとしか進まない私の読み方に、恐縮ながら皆さんにお付き合いいただいている。創世記はようやく27章である。

 年老いたイサクは、双子の息子エサウとヤコブのうち、エサウだけを枕元に呼び、お前の狩りの獲物を料理して食べさせて欲しいと願う。それを食べたらお前を祝福してあげるから、と。天幕の中で密かに行われたその会話を盗み聞いた母リベカによって、もう一人の息子ヤコブがエサウになりすまし、父の祝福をだまし取る計画が進行するくだりを今読んでいる。この問題だらけの家族の行く末は、これからのお楽しみ(?)だが、神様から祝福された人であるイサクが、息子らのうちエサウだけを選び、自分の祝福を与えようとしたことの中に、私は人の過ちを見る。

 父イサクが、家族会議で財産相続の話をしたのならまだわかる。しかし彼は、エサウ一人だけに、おいしい料理を自分に献げることを要求し、それを自分だけで楽しみ、愛する者として、エサウだけを祝福しようとした。そのふるまいは、疑似神様的ふるまいと見える。あのノアも、アブラハムも、祭壇を築き、そこで献げものをささげ、神様からの祝福を受けた。イサクを弁護するなら、自分が神様から祝福を受けて生きてきたことの喜びを、愛するエサウとも分かち合いたかったのかもしれない。献げられたものを楽しみ、献げた人を祝福するという、神様の形をまねしてみたかったのかもしれない。でも、神様の与えてくださる祝福は、人々が分かち合うことができるが、人間が神様をまねしてふるまっても、そこで与えることのできるものは、分かち合うことよりも、むしろねたみや対立を生んでしまう。

 人は与えることはできない。本当にできるのは、神様から与えられたものを分かち合うことだけなのだ。

      (中沢麻貴)