牧師室より

〈 洗礼について 1 〉

少し秋めいてきました。町中ではもうクリスマス用品が売られています。そこでちょっと飛躍しすぎかもしれませんが“洗礼”についてのお話をしましょう。

すでにお気づきの方も多いと思いますが、新共同訳聖書の「洗礼」という文字のわきに、「バプテスマ」というルビがついています。これは「バプテスマ」と読んでも良いという意味です。ある教派の伝統から来た読み方ですので、私たちの教会では「せんれい」と読むことにしましょう。

主イエスは、洗礼者ヨハネという人から洗礼を受けました。ところがイエスご自身が洗礼を授けていたという記述は聖書に見られません。

イエスのこのような言葉があります。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(マルコ10:38)。「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」(ルカ12:50)。

そう、主イエスが語られる洗礼とは、主が身に受ける受難(十字架)の暗喩なのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるため」(マルコ10:45)、主は来られ、洗礼という受難を身に受けたのです。その意味で、主にとっての洗礼とは、すべての人に仕えるために味わう苦難のしるしと言えます。

主イエスの洗礼は、私たちの罪を贖うための洗礼であり、その意味で私たちは皆、すでに主イエスの十字架によって、洗礼を授けられてしまっているとも言えます。主イエスは聖霊による洗礼を、すでに人類に授けてしまっているがゆえに、あえて「水の洗礼」を授けなかったとも言えるのです。

「水の洗礼」(教会で行う洗礼)は、主イエスの十字架という洗礼(恵み)への感謝の応答です。洗礼を考えておられる方は、牧師までお申し出ください。お待ちしています。

          (中沢譲)