牧師室より

昨年の7月、鶴見俊輔氏という哲学者(もしくは政治運動家)が亡くなり、9月には写真家の福島菊次郎氏が亡くなった。そして今年の8月、ジャーナリストむのたけじ氏(本名は武野武治)が亡くなった。それぞれキャラクターは異なるが、戦後日本に無くてはならない存在であったように思う。

 戦後70年という時の流れは、日本社会を戦前へと回帰させるのに十分な時であったようだが、そのことは同時に、戦後の問題提起者たちを失うのに十分な時でもあったということを知らされ、とても寂しい。反骨精神の塊のような人たちがいるから、日本は大丈夫、自分の役割はその“後方支援”と勝手に任じてきたのだが、いつまでも失われないと思っていた人たちは、次々と世を去って行く。

 “ペンは剣よりも強し”という格言がある。余談ではあるが、出典は、エドワード・B・リットンの劇『リシュリューあるいは謀略』の中で、17世紀の仏宰相リシュリューに語らせた言葉なのだそうだ。私は思想家でもなく、ジャーナリストでもなく、そして学もない。あるのは体重だけの、無力な牧師だ。それゆえに“信仰はペンよりも強し”と豪語する自信もない。

 最近手に入れた本に『なぜクリスチャンになるの』(ティモシィ・ラドクリフ 教文館)というのがある。英国のドミニコ会修道士によるものを邦訳したものだ。

 著者は「『なぜクリスチャンであるのかね』と友人に尋ねられる」経験をしたという。その友人はさらにこのように著者に尋ねている。「クリスチャンであることの意義は何なの。その目的は何なの」と。

 まじめな修道士である著者は、「もしキリスト教が真理ならば、すべてのことに意義を与える神に向かうことこそが、キリスト教であると私は考えていた」という。それゆえに、修道士の道を選んだのだろう。その彼に対し、クリスチャンであることの意義と目的を尋ねられて、少々面食らったようなのだ。そして彼は質問者の求める意図に気づかされたのである。つまり日本的な表現に置き換えると、「キリスト教を信じると、どんなご利益(りやく)があるの」という問いであったのだ。  

友人の問いに対し、信仰者の生き方を理解してもらおうとして著者は、ある大司教の言葉を紹介している。「証し人であることは…もしも神が存在しなければ、自分の人生の意味がなくなるような生き方をすることである」という言葉だ。

 キリスト者は、信仰生活に入ることによって、得たと思えることもあるだろうし、その逆もあるだろう。しかし信仰者にとって重要なのは、“ご利益”の問題ではなく、“生き方”の問題なのだと、著者は読者に示唆しているのである。“生き方”が神を証しする、それがキリスト者の目的である、ということなのだろう。

 どのような“生き方”をするのかは、一人一人に委ねられている。さて、“残りの者”として、どう歩むべきか。         (中沢譲)