牧師室より

 先週の平和聖日、鈴木文治先生が説教の中で話された、一つの言葉が心に残りました。「私たちは、戦時下を生きているのです」。

過去の戦争について知ろうとするとき、それぞれの戦争には時と場所があります。いつ、どこが戦場となったのか、そして、どの国が参加した戦争なのか。そういうことが、歴史の記憶としては重要です。ところが今の時代、戦争は国境という枠組みを越えた広がりを、かつてない形で持っているのかもしれません。

 国境を越える美しい言葉があります。「愛は国境を越えて(映画・劇・漫画)」、「国境なき医師団(国際NPO)」、「宇宙から見た地球に国境線は見えなかった(複数の宇宙飛行士の言葉として)」・・・

 でも、国境を越えるのは愛や理想だけではないと気づきます。憎悪や異議申し立てもまた、国境を越えるのです。私たちは戦時下を生きている、という鈴木先生の言葉に、あらためてそのことを思いました。国境を越えて飛び立った飛行機から、子どもも住む村に爆弾が落とされる空爆。日常生活が武器と破壊によって脅かされる状況が、どこの国でも起こるテロ。難民となった人々が、世界のあちこちに散らされていく今、「戦時下」は国境を越え、私たちの日常となります。

 私たちは、愛や善意を“輸出”することには、満足を感じたりしますが、果たして国境を越えて流れ込んでくる苦渋を、どれだけ引き受けているだろうか、と考え込んでしまいます。また、境界線を引いた内側だけの平和を、頑張って維持していくことが、いつの間にか境界線の外側の苦渋を増やしているかもしれないという、不均衡・不平等という問題に、どれだけ注意をはらって暮らしているでしょうか。

 8月になると、小説『本泥棒』を手にとります。マークース・ズーサックという、私より10歳以上若い作家の本です。ナチス政権下に生きる少女の物語です。想像力と言葉の力が、時空を超える可能性に希望を感じさせる本です。   (中沢麻貴)