牧師室より

 本日は「平和聖日」」です。広島への原爆投下を経験した西中国教区が1961年に平和を覚える日を定めて欲しいと日本基督教団に訴え、翌年、教団は8月の第1聖日を「平和聖日」と定めました。

続いて日本基督教団は、19673月に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)を、教団議長・鈴木正久の名で出しました。加害者としての教団の罪を告白することで、「平和聖日」の意味を深めることになりました。

かつて教団は「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(1944)に次のように発表しました。「…しかも緒戦以来皇軍によって挙げられた諸戦果とその跡に打ち樹てられた諸事実とは、わが日本の聖戦の意義をいよいよ明確に表示しつつあるではないか。彼らの不正不義から東亜諸民族が解放されることは神の聖なる意志である」(第1章抜粋)。

「平和聖日」とは、この「書簡」のみならず、実質的に戦争に協力し、鼓舞してしまった教団の罪を見つめ、平和を守る決意の日でもあるのです。

戦争責任告白の草案を書いた大塩清之助牧師の書『ゆるされて生きる』に、マルティン・ニーメラーが1945年にみた夢が書かれている(『世界』19669月号引用)。「お前は何か申し開きをすることがあるのか」(声)。「はい、私にはかつて何人も、福音を語ってはくれませんでした」(ヒトラーの声)。「お前は何故、この男に福音を告げはしなかったのだ」(ニーメラーに向けられた声)。  

何度か同じ夢を見たニーメラーは、「1935年から1945年の間に生じた出来事について、いったい誰がその罪責から免れていようかと考えるようになりました。私が得た結論は、教会はその責任を果たさなかったし、わたし自身も八年間牢獄に繋がれていたけれども、自己の責任を果たさなかったということです」と語っています。

戦後70年を経過した今日、残念ながら私たち日本のキリスト者は、かつての日本基督教団やニーメラーが経験した場に立たされつつあるように思います。「歴史は繰り返す」と覚めた目で見つめるのか、二度と戦争協力はしないとの思いを強くしつつ歩むのかが問われているのです。(中沢譲)