牧師室より

 昨年の平和聖日で講師をされた稲正樹先生が翻訳を担当された『北東アジアの歴史と記憶』(勁草書房2014)という書を教会員からお借りしたので紹介したい。本書は、近代以降の日本、中国、韓国のそれぞれの国が抱えてきた「歴史と記憶」に関する、複数の研究者による論文集である。その第一部「日本研究」には、三つの論文が収録されている。

 一つ目は、靖国神社の問題で、これまでヤスクニ問題として議論されてきた内容の整理である。つまり靖国神社にかわる新しい追悼施設をつくっても、国家によって戦争に利用されるという危険性があるという指摘などである。

 二つ目は、日本古来の宗教には、戦争への抑止力となるような精神的(神学的)要素がなく、そのような精神文化の中で生じた、広島・長崎での原爆体験という記憶は、日本人に戦争責任を免除させているという分析をしている。つまり、加害者としての責任を意識することができず、被害者として、先の戦争を受け止めているということなのだ。先のオバマ米大統領の広島訪問が、そうした日本人意識の延長上で受け止められたのだとするならば、多くの日本人は、加害者としての記憶を欠如したまま、“慰め”を与えられ、満足したことになる。本来ならば、宗教が示すべき平和的道徳的意識を、加害責任を問うという社会的ムーブメントが穴埋めし、育むことが、この章の提案内容のようだ。

三つ目の論文は、二つ目と同じで、どうしたら加害者として歴史を見つめる目を持つことができるだろうかという問いと模索である。解決の方向性として、“人間の尊厳”について考えることを提案している。

ナショナリズムが跋扈(ばっこ)する昨今、耳に痛いテーマであるが、そういう今だからこそ、重要だと言える。憲法学者である稲正樹先生も、日本社会に問いかけたいと願って翻訳されたのだろう。

 キリスト教には、戦争を引き起こしてきた歴史もあるが、平和の力にもなれることを信じている。この書籍を読みたい方には貸し出し可能なので、牧師まで。    (中沢譲)