◇牧師室より◇
『インクルーシブ神学への道』(新教出版社)という本が出版された。今年の平和聖日の礼拝説教と講演講師を引き受けてくださった鈴木文治氏が執筆されたものだ。氏は川崎市にある日本基督教団 桜本教会の担任教師でもある。「インクルーシブ」(「インクルージョン」とも言う)について、氏はこう説明している。「どのような違いであれ、それを理由として排除するのではなく、お互いが受け入れ合い支え合って生きる共生の理念である」と。哲学の徒でもある氏が、多文化共生の地・川崎で、人々に仕える中で、たどり着いたのが、この「インクルーシブ神学」という答えだと思う。
氏は最終章で「神義論」について論述している。「神義論」とは、善である神と、この世にある悪について考察する哲学(神学)のことである。
氏が、アウグスティヌスに生じた疑念を語る部分で、神義論が始まるきっかけともなる言葉を記している。「もし世界が善なる神、万能なる神によって創造されたのであるならば、なぜこの世に悪が存在するのか」と。
人は問う。なぜ自然災害が生じるのか、なぜ人間は戦争をするのか、なぜ人は障がいを負うのか、なぜ人は差別するのか……神の創造の業は完全であったはずなのに、と。「悪」(自然災害)が存在する理由が分からず、人は苦しみの中でその理由を問う。その意味で「神義論」とは、誰もが人生の中で抱く、根源的な問いでもある。
鈴木氏も、その問いを追い、哲学(神学)した報告が最終章だ。彼はカール・バルトを紹介して、この章を閉じている。
「神学とは巡礼の学であり、『いつもただ違った方面から別々に、一つの対象に向かう思想や命題を辿(たど)るだけであって』 『この対象を把(つか)んでしまったり、言わば≪とじ込め≫たりすることはできない。その限りにおいて、それは破られたる思想であり言葉である』」と。つまり人は神を理解することを欲するけれども、被造物にすぎない人が、創造主たる神を完全に把握することはできず、その意味で「神学」というのは「破れた学」でしかないというバルトの見解に、鈴木氏もまた同意し、この章を終えている。
しかし氏は、続けてエピローグを付け加える。それは氏が出会った隣人たちとの記録である。そこにはいくつもの希望が記されていた。そしてその出会いの記憶を、次の言葉で表現している。「神は苦悩の淵の叫びに豊かに応えたもう」と。
なお、7月24日に社会委員会主催『インクルーシブ神学への道』の学習会を予定している。 (中沢譲)