牧師室より

少年ダビデは、じわじわと迫り来る強大なペリシテの軍隊の前に、剣も盾も持たず、鎧も着ずに、羊飼いの普段着姿で立った。彼の放った石がゴリアテの額に命中したとき、神は弱き者の味方であることを、人々は知った。1980年代後半、子どもの頃から慣れ親しんできた、あの情景が胸の内にあって、イスラエル軍の戦車に向かって投石するパレスチナの少年の写真を見たとき、心の内で、石を握りしめた少年の姿は、ダビデの姿に重なった。私は、異邦人なので、少年がどのような民族的背景を持つのかということを思い浮かべるよりも早く、状況の類似ということが自然と心に湧いた。

 いま、アブラハムの物語を読むと、アラム地方に住む父祖の同族たちのもとを離れ、遠いカナンの地で核家族の寄留者として生活する彼の姿は、都会で単身か小さな家族で暮らし、教会に通ってくる人々の姿に重なる。長年連れ添った妻サラが天に召されたとき、初めて妻や自分が葬られる墓地のことを真剣に考え、周囲に暮らす人々に頭を下げて土地を譲ってもらったアブラハムの姿は、遠い故郷の墓ではなく、自分や同居の家族の葬られる場所としての墓地を考える都会人の姿に重なる。異なる宗教観、異なる風俗習慣の入り混じる社会環境の中で、アブラハムは自らが仕える神に認められた者としてふるまうことによって、周囲から一定の尊重を勝ち得ていたように創世記からは読み取れる。この日本社会において、私たちはそれぞれ、どうふるまっているだろうか。

 聖書を開くたびに、ヤコブ一族のエジプト移住の姿に、難民問題が重なって見えたり、レンガ作りの無理なノルマを課されるイスラエルの姿に、ブラック企業と非正規雇用の労働者の姿が重なったりもする。

 慣例重視で律法主義の宗教指導者たちの発言や態度が、主イエスを嘆かせたことを思うと、教会の牧師としての自らのふるまいは、大丈夫かしらと反省したりもする。

 いつも聖書を開けば、そこに私たちの今と、かつての世界とが、重ね合わされて見えてくるので、楽しみを感じたり、希望を見出したりする日もあれば、畏れや戒めを見出す日もある。

 「聖書はいつも、新しい気持ちで読みなさい。だから自分の聖書には、既読の印として傍線をひいたりしないでおきなさい」。わが師と仰ぐ牧師から、昔言われた言葉を想い出す。

 (中沢麻貴)