◇牧師室より◇
「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。」(イザヤ54章7節)。このような言葉が、旧約聖書の預言書に出てきます。預言者とは、苦難の中に置かれているイスラエルの民に、神の御心を示し、希望の言葉を語る存在です。その預言者(第2イザヤ)が、「わたしはあなたを捨てた」という表現を用いているのです。この出来事は、バビロン捕囚のことを指してのことです。第2イザヤは、イスラエルの民が捕囚から解放されて帰還を告げる預言者です。その意味では希望の言葉を語っているのですが、同時に、神が民を「捨てた」ことを証言した預言者でもあるのです。
神が民を“捨てる”とは、どういうことでしょうか。事象的には捕囚ですが、民の実感としては、“神の沈黙”の問題を指しているのだと思います。地上で起きている惨事に、神が介入してくださらない。神が救いのみ業を示してくださらない。そう思っている民が、“神が沈黙している”と感じているのです。
そこで人は、その理由を考え始めます。その一つが罪の問題です。“神の沈黙”は人間の罪が原因に違いないと考えるのです。そして神の正義とは何であるのかを考え、神と人との関係について考えさせられるのです。捕囚という事件は、神についてあらためて考える契機になったのでしょう。預言者は、「深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる」と告げています。神がイスラエルを憐れむ神であることを、民に思い起こさせているのです
“神の沈黙”。これはイスラエルだけでなく、神を信じる私たちにとっても大きなテーマです。自然災害、戦争、人生の試練というものが、今日においても起きているからです。
そして試練に遭った時に、私たちは戸惑いを覚えるのです。神はこの惨状をご存じなのだろうかと。そして祈りは聞かれるのだろうかと。
幸いなことに、キリスト者は、一つの事件を知らされています。それはイエスが地上を歩まれたという事件です。それは神の地上への介入であり、神ご自身がインマヌエルの神であることを証した事件であり、沈黙していると思われていた神が、民のうめきに応答した事件でもあります。神は歴史に介入されたのです。
その地上を歩む神イエスが約束された神の霊・聖霊とは、神が民を「捨ててはいない」という約束なのだと思います。この約束を信じたいと思います。
(中沢 譲)