牧師室より

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ923より)。

 この時の弟子たちは、イエス様がユダヤ人指導者たちに排斥されて殺されるとの予告は聞かされたが、ローマ式の十字架刑で師が処刑されるとは知らされていない。その時点に立ち、この教えに思いを巡らす。

 十字架刑では、自分を処刑する道具である十字架を背負って死に場所である刑場までを、衆人環視のもと歩まされる。私たちにとって、やがては自分を死に至らしめるものを、日々背負って生きるとは、どんなことだろうか。私たちは、「老い」や「衰え」を負う。あるいは、「時間」を負う。特別なことではなく、そうして日々を、人々の間で、ありのままに、ゆっくりとした足取りで生きていく。わたしに従うなら、それでよいと、言われているのかもしれない。自分の人生の終わりまで負っていく責めや恥や過ち、あるいは苦しみは、自分にしかその重さのわからない十字架かもしれない。他者と比較することに意味を持たない、そうした重さを背負ったまま歩み、受難のキリストに従って行く受難節でありたい。―2月の洋光台集会の学びより―

中沢麻貴)