牧師室より

新年おめでとうございます。

フェミニスト神学者の絹川久子氏の著作、『沈黙の声を聴く マルコ福音書から』を紹介しつつ…。

 著者は「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」(マルコ5:1-20物語を取り上げ、悪霊たちが自らを「レギオン」(ローマ帝国の軍団の呼称)と名乗ることに注目する。舞台はゲラサ地方という外国の地。「ローマ帝国による抑圧下での苦しみや痛みを反映し、ユダヤ人−なかでも支配者たちによって社会の『他者』とされている人々−の帝国に対する反感を反映していると考えることが可能」だと論じる。マルコを“抵抗の書”として見るのだ。

 たしかにガリラヤの歴史は、ユダヤ人の抵抗の歴史でもある。帝国への反乱が、何度も起きている。帝国の厳しい監視下で、マルコは物語の舞台をあえて“ゲラサ”とし、登場人物も象徴的な表現に置き換えていると、絹川氏はこのテキストを読む。

 登場する障がい者の存在については、「彼の常軌を逸したふるまいは、適応したり受け入れたりすることが困難と見えるひどく残酷な状況に対して闘っていることの表現として解釈することも可能かもしれません。また悪霊によって植民地化されているこの男性の精神状況を社会的、政治的、経済的または宗教的抑圧に対する共同体全体の集合的懊悩(おうのう:悩み苦しむこと)として解釈する学者もいます」と言い、「イエスの悪霊払いを政治的に公的な象徴的行為として読むこと」ができると論じるのだ。

 そこから導き出されるのは、悪霊=レギオン=帝国の駐留軍であり、その存在によって苦しめられているのが、ゲラサ人=民衆であり、悪霊が乗り移ることになる「二千匹ほどの豚」は、ローマ軍との結びつきで得られる、経済的「利益」を象徴していることが浮かび上がってくる。軍隊が駐留することで経済的利益を受けている「豚飼い」たちは、「ゲラサ人」でもある。彼らは占領される側の存在でありながら、軍の駐留によって生活の糧を得るという矛盾の中に置かれている。

 現実に思い浮かべるのは、沖縄の現状だ。沖縄の人たちは米軍の駐留によって分断され、「社会的、政治的、経済的懊悩」の中に置かれている。そして、“経済的格差社会”の中で生きる本土(ヤマト)の我々もまた、分断されていることを思った。主イエスはそのようなただ中に立って、人々を癒やし、救いを宣言されるのだ。

   (中沢譲)