牧師室より

「これはたんにパリに対する攻撃ではない。攻撃されたのはフランス人だけではない。全人類が、そして人類が共有する普遍的価値が攻撃されたのだ」。

これは米国のオバマ大統領が、パリで同時多発テロ事件が起きた際に発表した声明の一部である。15年前に米国で起きた同時多発テロ事件の際に、当時のブッシュ大統領が、「これは戦争だ」と発言し、戦争を開始した時の発言に類似している。

オバマ大統領は、こう迫っているのである。「このテロは、全人類に対する攻撃だ。さあ、あなたは“全人類”の側につくのか、それともの“テロリスト”の側につくのか、はっきりしろ」と。そういう二者択一を「全人類」に迫ったのだ。

奇しくも日本は、今秋安保法制を成立させており、「人類が共有する普遍的価値」を守るための“聖戦”に参加すると言い出しかねない状況だ。

“アルカイダ”も“イスラム国”も、米国の身勝手な軍事行動が生み出したものだ。自らの罪を見つめることもせず、さらなる罪を重ねるための同盟を、米国は呼びかけていることになる。

西谷修氏(立教大学教授)が、『世界』(1月号)に、このように書いている。「ところで、『テロリスト』とは元々は犯罪概念である。つまり、そう呼ぶことにはすでに断罪の含みがある。だから「テロリスト」に対する「戦争」は、初めから「正義」の執行とみなされる。相手は無権利者であって、彼らには戦闘行為そのものが許されない。そして無資格だから交渉相手としても認められず、ただ否定され抹消されるべき対象でしかない」と。ここで西谷氏は、国家同士の戦争と、国家と“テロリスト”との戦争の違いを指摘しているのだが、気づかされることがある。

私たちはマスコミが流している情報を鵜呑みにし、いつの間にか“テロリスト”を交渉相手ではなく“抹消”すべき存在だと思い込まされているのではないかと。

 ジャーナリストの安田純平氏がシリアの武装勢力に拘束されたことが「国境なき記者団」の声明によって明らかになった。昨年、後藤健二氏が拘束された時には、政府・外務省はまったく交渉する気がなかった。今回もまた、同様の過ちを犯す可能性がある。

 日本は民主主義国家であり、政府の過ちは、すなわちそれを選択した国民の過ちでもある。そろそろ国民を犠牲にする政治の有り様を、止めさせるべきではないだろうか。   (中沢譲)