◇牧師室より◇
「祝福」という言葉を辞書で調べてみた。「1、幸福を喜び祝うこと。また、幸福を祈ること。2、キリスト教で、神の恵みが与えられること。また、神から与えられる恵み」(『大辞泉』)。
「祝福」という言葉が、キリスト教用語として定着していることを思わせる説明であった。ちなみに新共同訳聖書には、「祝福」という語が300回以上も登場する。聖書は神の祝福の言葉に満ちていると言える。
旧約聖書の原語であるヘブライ語(berakah)には、「救済に満ちた力を与える」という意味の語が用いられている。ちなみに英語ではbless(用例God bless you! 神の恵みがありますように!)という語が用いられているが、英語同様に、ヘブライ語の「祝福」にも、「感謝」「恵み」という意が含まれている。
旧約聖書に登場する「祝福」は、より具体的である。たとえば創世記には、「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちよ』」(創9:1)。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」(創12:1-2)。旧約聖書では、神の祝福が繰り返し語られるが、いずれの場合も、繁栄と幸いをもたらす語として用いられている。
主イエスは、幼子や罪人など、社会の中で“小さくされている”人たちを祝福された。これは当時の常識をくつがえす教えであった。パウロは、このイエスの十字架によって、アブラハムに与えられた祝福の約束が、すべての人の祝福となったことを明らかにした。彼の書簡には、「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。」(ガラテヤ3:8)とある。
主イエスは、幼子を抱き上げて教えられた。周縁に置かれている存在に目を注ぐことで、価値のない存在だと見られていた者たちにこそ、神の祝福と愛が、豊かに注がれていることを明らかにするためである。
本日の児童祝福合同礼拝は、そのことを覚える時でもある。この礼拝を通して、社会で“小さくされている”人たちに、私たちもまた目を向けることを促されるためにある。 (中沢譲)