牧師室より

 多くのプロテスタント教会では、この11月最初の主日に永眠者記念礼拝が行われている。私事で恐縮だが、子どもの頃からクリスチャンの両親に連れられて教会に行きながら育ったので、法事よりも永眠者記念礼拝のほうが私にとっては馴染み深い。かれこれ50年、毎年この時期になると、先に天に召された様々な人のことを想う。今年も母は、三年半前に召された父の写真を持って母教会の礼拝に出席しているであろうし、子どもの頃からの教会での交わりの中でお別れを告げた沢山の方々のことをあれこれ思い出す。また、牧師になってからお見送りした方々のお顔が浮かぶ。さらには、教会とは関係なくても、親戚の人々、親しい友人、自分より若くして旅立ったあの人この人、いろいろな人々のことを思い出す。教会の礼拝堂に並べられた沢山のお写真の中や永眠者名簿のお名前の中には、地上の人生では出会うことがなかった方々もいらっしゃるのだが、そうした方々とも一年に一度、静かに対話するような気持で礼拝を守る。

 礼拝堂の前方にずらりと並べられた写真を見ながらいつも思い出す聖句がある。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか(ヘブライ人への手紙12:1)」。子どもの頃に覚えた口語訳の聖句では、「おびただしい証人の群れに囲まれている」という部分が、「このような多くの証人に雲のように囲まれている」と訳されていた。旧約聖書の時代、人は空の雲を神の臨在の徴(しるし)と見た。天上にある兄弟姉妹に、雲のように囲まれながら見守っていてくださる神様の姿を、ふと連想する。

 年に一度、天に召された人々と静かに対話しつつ、そのおひとりおひとりに、生きる命を確かに与えてくださった神様が、わたしにも生きるべき人生を与えていてくださることを思い、今日から歩み出したい。雲のような証人たちには、またお会いしましょう、そして、いつかお仲間に加えてくださいと、元気に手を振って挨拶し、出発することにしたい。

           (中沢麻貴)