牧師室より

「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15a)。これはイエスが宣教を開始された時のメッセージです。私たちはこの言葉から何を聞き取るのでしょうか。この聖書箇所について、「イエスの到来が、神の国のはじまりを意味する」と説教者は礼拝でよく語ります。教会に来られている多くの方も、そのような理解を共有しているのではないでしょうか。しかし同時に、私たちは、「神の国」がよく見えないとも感じています。また、そのようにため息をつくのに十分な理由もあるように思います。「神の国」とはどのようなものであるのか、やはり私たちはよく理解できないでいるからです。

しかし「神の国」は聖書記者の「空想」の産物ではないと私は受け止めるのです。それは“想像力”によってです。旧約学者の並木浩一氏はその著作の中で、「(想像力とは)すでに存在しているイメージを未だ存在しないイメージへと変容する力」だと、その著作の中で語っています。その言葉から気づかされるのは、イエスのメッセージです。イエスが「神の国は近づいた」と宣言された瞬間、私たちの生きている社会は、まったく異なるイメージをもって捉えることができるようになったのです。同じ現実のただ中にありつつも、私たち人間が見つめるものとは異なるものを、神は見つめておられることを知らされたからです。

 イエスはたとえ話という形で「神の国」(天の国)を表現されました。それは「ぶどう園」であったり、「婚宴」であったり、「パン種」であったりします。なぜ「神の国」を、地上にある事柄と置き換えることができるのでしょうか。なぜならば地上は「神の国」の種が蒔かれている場であるからです。イエスの「神の国は近づいた」という宣言は、そのことを意味していると受け止めるのです。

 私たちが置かれている現実は、けっして安楽なものではありません。社会の現実、教会の現実、私たち一人ひとりが置かれている現実も、実に厳しいものです。にもかかわらず、その現実に対して、「神の国」の到来が宣言されるのです。なぜならば、「神の国」の種が、イエスによってすでに蒔かれているからです。つまり私たちの目の前にある“事柄”は、「神の国」に連なっているのです。それゆえに私たちは、諦めることはできません。希望を知らされた者として、「神の国」の「種」を見いだしつつ歩むのです。    (中沢譲)