牧師室より

8月の終わり、「夏が過ぎ…」という井上陽水の「少年時代」の歌と共に、夏休みが終わる予感が自然と心に湧いてしまう。神学校での最後の学生生活からでさえ、15年も経っているのに、である。ある種の季節感なのか。子どもの頃から、夏は特に、涼しい夜明けに起きだして、朝食前に読書や勉強をする習慣があった。動物に関わる勉強をするようになり、そこに餌やりや飼育小屋の掃除といった朝の日課が加わったので、早起きして朝食前に何かするのが、自然なリズムとなって染みついてしまった。以来、基本的に年中早起きだが、決してこれは勤勉ということではない。今も明け方に起きだしていろいろやるが、必ずしも生産的なことをしているわけではない。

 ただ、どういうライフ・スタイルか、ということと考えや行動の傾向というのは深く結びついているような気がする。学校や会社は、時計による機械的リズムに支配された時間で動く。農林漁業は、日出・日没や潮汐や天候による自然のリズムが基本となって動く。現代人の生活は、時計から完全に自由になることは不可能だが、生活の中で自然のリズムを体感する力を失うことが、生命を危うくするような気がしてならない。

 神学生時代、私の周りでは、旧約時代を中心としたイスラエル宗教史については、F.M.クロス著『カナン神話とヘブライ叙事詩』、教会史については、W.A.ミークス著『古代都市のキリスト教』という本がよく話題にのぼった。前者は、初期のイスラエル宗教が、周囲の他民族の宗教や文化との間でどのような相互作用をしながら成立していったのかを考察した書物で、後者は、初期のキリスト教会が、ヘレニズムの都市環境からどのような影響を受けて成立していったのかを考察した書物であった。いずれも優れた研究なのであるが、難しいことはさておき、私の抱いた印象は、アブラハム一族は、羊を連れて流動的で自然のリズムに基づいた生活を営み、イエス様の一行も、弟子たちと群衆と共にその日暮らしの、やはり流動的な生活を営んでいたのに、都会的な人々によってそれが宗教として受容されていくと、律法やら教義やらによって、窮屈なものになっていくのだな、というものであった。あるいは逆に、都市的環境で窮屈な生活をしている人々こそは、生きるために開放的リズムを内包する宗教を必要としたのかな、ということも言えるかもしれない。

 イエス様の地上での生涯は短い。イエス様は、生き急いだのか、ゆっくり生きたのか、短い夏の終わりにふと考えている。   (中沢麻貴)