牧師室より

小学生の頃、シール集めが子どもたちの間で流行した。百円ショップで何シートもシールが買えてしまう時代ではなかったので、小学生たちは、手に入れたシールを一枚ずつ台紙ごとていねいに切り離し、それを友人間で交換しあったりして収集していたものだ。私は、シールを買えるお金は無く、昆虫の収集に心を奪われていたので、あまり積極的にシール集めには参加していなかった。それでも、小さな菓子箱に少しのシールが丁寧にしまわれていて、時には「これをどれかと交換してくれない?」という友人の要請に応じていたものだ。

そんなある日、教会である方から、これをあなたにあげましょう、と一枚のシールをいただいた。見たことも無い大きなシールだった。名刺二枚を合わせたより一回り大きい四角いシール。真っ赤な地色の下のほうにはアオザイ(ベトナムの民族服)姿の少女が、目を大きく見開いている姿が描かれており、その子の頭の上のほうに落ちてこようとしている爆弾が黒々とあった。余白には文字があり、peaceとかno warとかだったはずだが、まだ子どもで英語が読めなかったので、記憶にない。それは最高ランクの宝物として、菓子箱の一番奥にていねいにしまわれた。8月になると、教会で反戦平和を訴えていた物静かな方の姿と共に、菓子箱の底にしまわれた真っ赤なシールを思い出す。あの「反戦ステッカー」は、本来の目的のために見える場所に貼られることはなかった。

けれども、戦争とは、子どもの頭の上に爆弾を落とすことだ、というイメージは深く心に刻まれた。そして、反戦とは、爆弾を落とす側ではなく、落とされる側に立って声を上げることだというイメージも。

今夏、帽子のおでこに、反戦ステッカーを貼り、炎天下で戦争法案反対を叫ぶ若者の姿を見た。その姿は、頼もしくまぶしい。この国は、二度と戦争をしないと誓った。その誓いを踏みにじってはならない。私には、教え子とその子どもたちを、決して戦場に立たせない責任がある。特大シールに込められ託された事の意味を改めて問う夏である。(中沢麻貴)