牧師室より

15日、所用で路線バスに乗りました。高校生の下校時間でした。乗り込んできた女子高生たちが、楽しそうに、あるいは真剣に、おしゃべりする姿は、ある意味見慣れた光景でした。でも、おしゃべりの内容が聞こえてきた時、少しびっくりしました。「…でもサ、アベサンって、九条ちゃんと読んでないんじゃないの。まじ腹立つ」。周りにもよく聞こえる声でそう言い放った彼女。隣の友人も、「だよね。チョーおかしい話で、ブチ切れもんだよネ」と。それから彼女たちは、宿題や身近な人間関係の話題に移って行ったのですが、何かが少し変わりつつあるような、悪くない感じを持ちました。そして、彼女たちをがっかりさせない大人になりたいと思いました。

 哲学者鷲田清一氏の『しんがりの思想』を読み始めました。日本社会が高度経済成長期を経て高度消費社会へと移行するうちに、日常生活で必要なことを、共同体の助け合いの中で担うのではなく、対価を支払って受けるサービスへと代替してしまった結果、私たちの社会で人は、何か問題が生じた時に、それをサービスの低下としてしか感じ取れずに、クレームを言うことしか出来なくなってしまい、主体的に社会を構築する市民としての力、市民性をひとびとが失ってしまったと、鷲田氏は指摘します。子どもを産み育てること、食材の調達、看護や介護、看取りと葬送、もめ事解決、防犯防災など、人が共に生き延びていく上で日々必要なことを、氏は“いのちの世話”と表現します。そして、明治以来の近代化の中で、それが協働からサービスに変化し、“市民”は“消費者”や“顧客”でしかなくなって、創造性も生存力も衰えてしまったと。

 そんな情けない私たちの社会にいま一番必要なのは、リーダーではなくて、市民ひとりひとりが、特性や経験に応じて、社会の中に自分の引き受けることができる何かを見いだしあいながら担うことであって、そうした行為が人と人との関係の結び直しへと発展し、やがてその先に、はじめて生き生きとした市民社会の回復がある、そんなイメージがこの本を読みながら湧いてきました。そして、教会に集うひとびとは、“消費者”でも“お客さん”でもない顔をしているなと、ちょっと頼もしく感じるこの頃です。   (中沢麻貴)