牧師室より

保育士になる勉強をしている学生さんたちに、礼拝で次のようなお話をしました。

 旧約聖書サムエル記に、預言者サムエルが神様に命じられ、次の王となる人を任命しに出かけて行く様子が語られています。それは、羊飼いエッサイの息子たちのうちの誰かなのですが、サムエルは、彼らに会うなり、長男に目を留めました。背が高く立派な若者だったからです。しかし、神様が王となる人物として示されたのは、まだ子どもであった末っ子のダビデでした。神様はサムエルに、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と、告げたとあります。戦乱の世に人々の先頭に立ち、強大な敵と対峙する王として、神様は屈強な若者ではなく、小さな子どもに目を留められたのでした。

 いま日本には、今日的な世界情勢に対応するために、軍事力を強める方向に進むかどうか、国民の判断が問われているような状況があります。世界で、或いは周辺諸国から、あなどられないために、軍事的に盤石な備えをという意見が出て来たわけです。一方、別の時代状況もあります。日本はこれまでの歴史の中で例がないほど、不思議な文化の大量輸出国として、存在感を世界に示しているのです。それは、「カワイイ」などという日本語が世界的に通用するようになっている、という現象として現れています。私は、サムエル記から連想を飛躍させて思うのです。自分の住んでいる国が、軍事力で守られているから他国から恐れられて平和だ、という国になるより、「カワイイ」の輸出国だから、攻めるのはやめておこうと思われる国として平和だ、というふうになればいいのに、と。

 新約聖書にあるイエス様のたとえで、百匹の羊を持つ羊飼いが、九十九匹を残して失われた一匹を捜す様が語られるとき、そこには、世間からは評価されないマイノリティーへのこだわりが示されています。旧約で示された、小さな子どもに目をとめる神様の視線と、失われた羊をこだわって捜すイエス様の視線は、どこかで深くつながっています。子どもを育む仕事をするとは、人を見る側に立つことを促されるということです。その時には、世間とは違う神様の視点の側に立って見ること、そうすることでしか見つけられない希望があるということを、どうぞ覚えていてください。   (中沢麻貴)