牧師室より

譲牧師と共に、この教会の働き人として招き入れられて一年が経とうとしています。役員の方々からも、子どもの教会の子どもたちからも、礼拝や集会の場でも、個々の方々との交わりの中でも、本当にたくさんのことを学ばせていただきながら、なんとかここまでたどりついた、という感じを持ちます。目が回るほど忙しかったですし、失敗も山ほどありましたが、教会の皆さんが辛抱強く見守って助言してくださったので、未熟な牧師二人も、励まされ、元気を注入されて進んでくることができました。

 コロサイの信徒への手紙には、牧会者の言葉として、自分が奮闘するのは、教会の人々が「心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるため」だと記されています(コロサイ22節)。でも、私たち二人の牧師はそれらのすべてを、教会の皆さんから与えられたのですから、奮闘されたのは、むしろ教会の皆さんのほうですね。

 聖書を一人で読んで勉強しようと努力しても、イエス・キリストが救い主だということをそこから学び取ることは難しいです。けれども、教会は、そこに集まる人々の中で共に時を過ごし、一緒に聖書のみことばに耳を傾けることによって、「神の秘められた計画であるキリスト」を感じ取ることができる場なのだと、改めて思います。「理解力を豊かに与えられ」というコロサイ書の表現から、そのことを連想しました。

 ITの普及による「ネット社会」の出現により、過去に類を見ない人のつながりが社会現象として起きてきました。「ネット社会」にも集団知は育つのかもしれません。でも、キリストの体なる教会も、この世に対する理解力を豊かにしていかねば、と思うこの頃です。ITより愛が結ぶ関係を共に育てましょう。(中沢麻貴)