牧師室より

朝日新聞18日夕刊に、「イスラム国」による日本人人質事件について、社会科などの授業で取り上げ、考える取り組みが広がりを見せていることを伝える記事が載った。事件が報道されはじめた当初から、中高生の間では、時々刻々と流されるネット情報への関心も高かったそうだ。立命館宇治中学・高校の中学地理、高校現代社会の授業における実践が紹介されていた。人質となった後藤さんやそのご家族、そして安倍首相やジャーナリスト団体などの発言を読み比べ、後藤さんの生き方や日本の中東への姿勢について考えさせる授業が行われたという。

 記事で紹介されていた、授業を受けた中高生の声の一つに、非常に感銘を受けた。「イスラム国の戦闘員は安倍首相のことを『アベ』、後藤さんのことを『ケンジ』と呼びました。後藤さんが敵ではないことはわかっていたのかもしれません」。あふれる刺激的な情報の中から、こうしたことをしっかり聞き取る若者の感性を素晴らしいと思い、そこに救いや希望の可能性を感じてしまった。ひるがえって、「テロとの戦い(対テロ戦争)」や「有志連合」という、奇妙に無名性を伴う言葉を用いて敵対関係を加速化させる政治家の、言葉に関する寒々とした状況を感じ、暗澹とした思いになる。

「有志連合」「対テロ」という得体のしれない標識は、「イスラム国」と同じくらい胡散臭い。しかしここで、私が尊敬する作家アーシュラKル=グイン作の『ゲド戦記』シリーズ第一巻の題名『影との戦い』をふと思い出してしまった。なんだか『テロとの戦い』に響きが似ているではないか。だが、ル=グインの作品は、青年魔法使いが、若気の至りの魔術で呼び出してしまった「影」と、脅かされつつも対峙する中で、ついにその邪悪なものが、自らの内面から生み出されたものであることを悟り、成長するという物語である。対照的に、「テロとの戦い」から良きものが成長する気配は無い。改めて調べたら、邦訳『影との戦い』の英語原作の題名は、直訳すると『アースシー(仮想の地名)の魔法使い』というものであった。     (中沢麻貴)