牧師室より

「この赤ちゃんは、世界中で、いちばん暗い、いちばんさみしい、いちばん貧しいところで生まれたんだね」・・・子どもの頃、教会のクリスマス礼拝の中で行われたページェント(聖誕劇)の中で、羊飼いが語った言葉です。「この赤ちゃんが、わたしたちの救い主」「そう、この赤ちゃんの名前はイエス様!」というふうに羊飼いたちのやりとりが続いた記憶があります。少し大人になった時、このセリフにかすかな違和感を覚えるようになりました。イエス様の誕生した状況は、世界一不幸かというと、そうでもないのではないか、という疑問が胸の中に生まれたからです。私たちの世界では、毎年何百万人という単位の子どもたちが飢えによって命を奪われています。戦禍で親や住む場所を奪われたり、体や心を傷つけられたりした子どもの数は、何千万人という単位になります。イエス様は、生まれた場所こそ悲惨だったかもしれませんが、両親に見守られ、なんだかよくわからないけれど、羊飼いたちも誕生を喜んでくれ、どこかの国から贈り物をわざわざ届けてくれた学者さんたちもいたのなら、貧しい中にも幸せが感じられる子だったのではないか。あなたより、わたしのほうがずっと深い悲惨を知っているよ、とつぶやく子どもが、世界のあちこちにいるのではないかと思うようになりました。

けれども、最近は少し思い直していることがあります。私たちの世界は、子どもが悲しいめにあうこと、貧しさをとことん味わうこと、理不尽さを経験すること、命を危機にさらされることが、ありふれて起こる世界なのです。子どもの悲惨がありふれている、戦慄すべきこの世界にこそ、救いが必要です。そしてまさに、ありふれている、ということで無視され、軽んじられ、後回しにされることこそが、悲惨の最大原因かもしれません。イエス様は、無視され、軽んじられ、後回しにされる、ありふれた貧しさの中にお生まれになりました。世界が無視する、このありふれた貧しさの中にこそ、神様は救いの初めを置かれたのではないでしょうか。       (中沢麻貴)