牧師室より

ある本で、次のような知見に出会いました。視覚障がいのある人は、駅などの出先で、音や匂いの情報から方向を確認して進むことができるのに対し、そうした障がいのない人は、音や匂いの情報に気が付かない。これは、視覚が聴覚や嗅覚を遮蔽(しゃへい)しているということである。

 見えることが不注意の原因となり、見えることによって、さえぎられて鈍くなっていることがある、という指摘にはっとさせられました。

 触発されて、それ以来ときどき試みていることがあります。電車に乗った時、目をつぶって、車内の音を十種類聞き分けるという課題です。はじめて数年になりますが、最初のころは、すべての音が喧噪となって混ざって聞こえ、何も聞き分けられませんでした。けれども、少し練習するうちに、いろいろな音が聞き分けられるようになってきました。また、いつもそこにあっても気づかないでいる音があることもわかりました。つり革のきしむ音、携帯電話を閉じる音、カバンの金具のすれる音。新聞と雑誌ではめくる音が違います。満員の通勤電車より昼間のすいている時のほうが、話し声は多く聞こえます。花粉の季節は、誰かが窓を開けるとクシャミや鼻をすする音が増えます。イヤホンからの音漏れや、携帯電話のボタンを押す音は、技術の進歩でしょうか、以前よりずっと小さくなりました。

 列王記上3章に、王となったソロモンが、神様から願ったものは何でも与えようと言われ、富でも長寿でも武力でもなく、民の訴えを正しく「聞き分ける心」を求めたとあります。私たちの時代にも、この聞き分ける心を持つ人が必要な気がします。

 同じ列王記上19章には、迫害から逃れた預言者エリヤが、山中で主の声を聞く場面があります。激しい風や地震や火が轟音を立てますが、それらの中に主はおられず、最後に静かにささやく声が聞こえて、それが主であったという場面が好きです。『讃美歌21437番の歌詞をいつも連想するのです。聴覚は加齢で衰えたりもしますが、心の耳を澄ませていたいものです。   (中沢麻貴)