◇牧師室より◇
「しゅくふく≠チて、クフクフってわらっているみたいで、くすぐったいような、たのしいかんじ」。
ずいぶんむかし、教会で出会った小さな女の子から言われた言葉です。今日は、児童祝福合同礼拝なので、ふとそのことを思い出しました。祝福は、人を幸せにしたり、元気にしたりする力のある、言葉による信仰のわざです。
旧約聖書には、神様が人を祝福する場面がたくさん出てきます。創世記では、命を与えられたものたちが「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福されていますし、世界を滅ぼす大洪水をくぐり抜けたノアと仲間たちも、神様から同じように祝福されました。アブラハムは、神様によって、自分の世代では完結しない長い旅に、祝福をもって送り出されました。彼に与えられた祝福は、「祝福の源となり」「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」という言葉を含みましたから(創世記12・2−3)、アブラハム自身がこの祝福によって神様からめぐみを受けるだけでなく、彼がいわば震源地になって、祝福が伝播し、世界中の人々が神様のめぐみの内に招かれるようになるという、壮大な祝福でした。
旧約聖書では、祝福は呪いと対をなすイメージがあります。言葉によって人を幸せにすることも、反対に不幸にすることもできるという、古代からの、言葉の力に対する感覚が感じられます。人々は、祝福には祝福を返し、呪いには呪いをもって対抗したのです。けれども、イエス様は「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6・28)と教えられたので、パウロも「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(ローマ12・14)と、教会において教えました。
礼拝の最後に、牧師が祝祷をします。礼拝のめぐみを分かち合った方々を、祝福をもってこの世の生活へと送り出すのです。一人一人が、アブラハムのように、めぐみの震源地となりますように、と願いつつ、神様からの祝福を祈ります。
(中沢麻貴)