牧師室より

今日は、「神学校日・伝道献身者奨励日」です。日本基督教団の教会に仕える牧師は、教団が養成機関として認めている神学校で学び、検定試験を受けるか、教団の信徒として教会生活をしながら神学校に行かずに勉強して、やはり検定試験を受けるか、どちらかの道筋で養成されるのが基本です。面接と筆記試験と論文(説教)提出によって教団から審査されるのですから、その点では、牧師になる道筋には、世間一般の技能や職種に結びついた資格試験と同じような印象があります。教会の働き人となるためには、いろいろ勉強して身に着けていないと大変だというのは、実際教会に遣わされてからの実感です。しかし、現行の試験のような形が、牧師の養成方法として、果たして妥当なのだろうかという問いが消えません。

聖書をたどると、神様が人を何らかの働きのために召命なさるとき、その人選は、しばしば私たちの人間的基準からは首をかしげたくなるような選びです。殺人罪で逃亡中だった人をイスラエルのリーダーに(モーセ)、まだまだ子どもだった人を年上の兄弟たちを差し置いて軍事的強敵との対決に(ダビデ)、自分でも言葉を知らない若造だという自覚のある人を預言者に(エレミヤ)、召命したとたん逃げ出した人を厳しい審判を告げる預言者に(ヨナ)、未婚の若い女性を救い主の母に(マリア)、漁師たちや迫害者をイエス・キリストの宣教者に(ペトロやパウロら)… ちょっと思い出しただけでも、この人選です。「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく…」とパウロも言っています(Tコリント126)。

まだ神学生だったころ、母教会の牧師に、「私なんかでいいんですかね」とつい言ってしまったことがあります。すると、「神様が選んだ人に文句をつけちゃいけないよ。本人も含めてね。あとは、教会が大事に育てるんだよ」と言われたものです。

 (中沢麻貴)