◇牧師室より◇

旧約聖書は、「律法と預言」からなるが、律法の部分は、「モーセ五書」とも呼ばれる。預言者ホセアは、モーセについてこう語っている。「主は一人の預言者によって/イスラエルをエジプトから導き上らせ/預言者によって彼らを守られた」(ホセア12:14)と。モーセを預言者だと指摘しているのである。その指摘からすると、旧約聖書全体が預言書だと言えなくもない。

 預言者とは神の言葉を預かる人のことである。イスラエルの罪を告発することを使命とした。ゆえに預言者はイスラエルの危機の時代に登場することになる。彼らは民が直面している危機が、罪に対する審判であることを告げ、悔い改めと希望を語った。しかし民は、耳に痛い審判の言葉に背を向け、預言者を迫害した。

 今年の「平和聖日」の礼拝は、会津放射能情報センターの片岡輝美氏をお迎えして証しを語っていただいた。本来ならば社会全体から注目され続けるべき被災者たちが、社会の片隅に追いやられ、その小さき声に耳を傾けない社会の罪が告発された。その生々しい現場に生きる片岡氏が、盲人バルティマイが、“ぶれることのない希望を心に抱いていた”と指摘された。“無に等しい存在”と世間から見なされ、希望のない状況に身を置きつつも、なおも希望の火を心に抱いていたことを、片岡氏はイエスに走り寄るバルティマイの姿から読み取られたのだ。片岡氏は、驚きと感動を覚えつつ、バルティマイの姿を見つめておられたのだろう。

 この片岡氏の指摘は、私にとって驚きだった。これまで私は、バルティマイが抱いてきた希望に注目してここを読んだことがなかったからである。その鋭い指摘に驚きを与えられつつ、希望のない状況の中で、なおも立ち上がることができるバルティマイに注目せざるを得ない片岡氏の視座に、彼女と福島の人たちが置かれている厳しい現実を教えられた。

 彼女の働きは預言者的である。社会の罪を告発し、周縁に置かれている小さな声を世に示し、そして希望の言葉を紡ぐからである。希望の見えない状況下で、希望を語ることの難しさを思う。それでもなお、語り続ける力、立ち続ける力はどこから来るのだろう。たどり着いた結論だが、神が共におられ、神によって召されたと信じる信仰以外ないだろう。たとえ神以外に希望の根拠がまったく見当たらなくても、立ち続ける勇気と力を、神は与えてくださるのだと思う。その預言者の告発に、少なくとも私たちは背を向けてはならないだろう。       (中沢譲)