牧師室より

先週の片岡輝美氏の証しからの抜粋です。題は、「何をしてほしいのか」(マルコ10:46-52)。

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本日は福島原発事故を通して、主が私たちに何を求めているのか、共に考えたいと思っています。

(福島は、先の見えない不安の中に置かれていますが、)本日の聖書に登場するバルティマイも、先の見えない自分の人生に不安を覚えていたことでしょう。彼は人々から見捨てられ、底知れぬ絶望感を味わっていた人物です。障がい者であり、物乞いをしている、社会の中でもっとも弱い立場にあります。しかし人々にとっては、彼は無き者に等しい存在でした。その彼が、ある日、イエスと出会います。この人なら自分に気がついてくれるかもしれないと感じ、彼はこれまでに出したことがないような大声で叫び続けました。そしてイエスに声が届き、イエスが彼を招いたので、バルティマイは喜び勇んで、イエスの足下に駆け寄りました。

イエスは、「何をしてほしいのか」と尋ねられ、バルティマイは即座にこう答えました。「目が見えるようになりたいのです」と。バルティマイの答えは、すでに決まっていました。「目が見えるようになりたい」。彼の願い、生き方は、ぶれていませんでした。小さな存在として、人々から無視されるような人生を歩んできたとしても、彼の中にある希望は定まっていました。イエスの問いは、「あなたはどのように生きたいのか」と、問われたとも読めます。主は、私たちに生き方を問われるのです。

主イエスは、そのままのバルティマイを“良し”としてくださいました。しかし、それだけで物語は終わりません。バルティマイは、その場でイエスと共に歩む生き方を選びました。彼は、そこからまた一歩、踏み出したのです。

主イエスが2千年前に、誰とどのように生きたのか、そして何をなさったのかを胸にとめながら、今も主イエスが、私たちのただ中に立っておられることを信じ、この礼拝から歩みだして行きたいと思います。平和を創り出す群れとなりましょう。

(報告者:中沢譲)