◇牧師室より◇
浄土真宗のよく知られた教えに、「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という言葉がある。善人でさえ往生できるのだから、悪人はいうにおよばない、という意味だそうだ。この教えは“悪人正機”(説)と呼ばれていて、仏から見れば、すべての人の本当の姿は“悪人”だとする視点から人間を見つめている。ここでの“善人”とは、自分ひとりの力では、完全な“善”を成すことができないと気づいていない“悪人”のことを指すという。また“悪人”とは、“善”と“悪”の判断すらできない存在を指すという。つまり、人間の努力の積み重ねではない“外からの救い”を知ることが求められてくることになる。私は仏教に詳しくないが、これが“他力本願”という信仰の骨子なのだと現時点では理解している。そしてこの浄土真宗の“善と悪”の考え方は、キリスト教の語るところの“罪”の問題や律法主義の問題を思い起こさせる。
先週の説教では、ヘロデ・アンティパスについての話をした。このヘロデとは、洗礼者ヨハネの首を刎ねたユダヤの王のことである。妻へロディアとの結婚のことで、洗礼者ヨハネから律法違反だと指摘され、逮捕させていたと聖書にある。
ところがヘロデは、ヨハネに興味を抱いてしまった。おそらく、ヨハネの教えに心惹かれたのだ。獄を訪ねたヘロデに対しても、ヨハネは悔い改めと罪の赦しについての教えを語ったのだろう。そしてヨハネが、ヘロデを批判するための演説をしていたのではなく、ヘロデの救いのために、悔い改めることを求めていたに過ぎないことを知らされたのだ。その意味で、ヨハネの逮捕は誤解によるものだったと言えるだろう。
ヘロデがヨハネの教えに心惹かれた理由が、自分の救いへの関心によるのだとすれば、彼もまた、ヨルダン川に集まってきた群衆のように、救いを求めていたことになる。しかしその望みは、サロメとその母へロディアによって、そしてヘロデ自身のメンツを保とうとする政治的な思惑によって、断たれることになる。
イエスの噂を聞いた時、ヘロデは“あのヨハネが生き返った”と発言した。その発言の背後には、預言者を殺害してしまったという後ろめたさと同時に、もう一度、神の言葉に触れたいという、ヘロデの複雑な思いが絡まっていたのではないだろうか。しかし聖書は、ヘロデとイエスとの出会いを伝えていない。ヘロデは、福音と出会う機会を、自ら閉ざしてしまったと言える。(中沢譲)