牧師室より

以前書いたとおり、神学校の麦畑では、初夏に小麦が収穫されていた。刈り取って束ねて陽に干し、人力による打穀と風選によって、麦粒が数十キロ得られた。しかし、以後の作業(麦粒を製粉して小麦粉にする)は、さすがに人力では難しい。製粉機を持つ業者に依頼するほかなかったが、そうできなかった食べられない状態の小麦粒が、かなり生じた。そこで、神学生の私は、同級生Yを誘って、鶏を飼うことにした。

 母教会の幼馴染の家が、鶏卵店を営んでいたので相談したところ、養鶏農家を紹介された。少し鶏を分けてもらえないかとお願いしたところ、ちょうど鶏舎のニワトリを入れ替えるから取りに来ては、と連絡を受けた。Yと私は、急いで養鶏農家へ向かった。「今日、三千羽ほど処分するけど、何羽欲しいの?」と聞かれ、一瞬言葉を失った。卵を採るためのニワトリは、品種改良の結果、一日一個の卵を、平均的に二年ほど産み続ける。二年目に、この「平均一日一個」のペースが落ちて来たところで、一挙に新しい個体と「入れ替え」をするのだ。処分されるニワトリは、廃鶏と呼ばれる。実は、廃鶏には、まだかなり卵を産める個体が含まれているのだが、それを選別することは難しいので、一挙に新しいニワトリと入れ替えてしまうのだ。養鶏農家の経営は厳しい。「卵を産まなくなった鶏に、二日も餌を与え続けたら、経営破たんするよ」と、養鶏農家の方から聞いた。

 Yと私は、十羽の「廃鶏」を貰い受けた。私は、少しだけ養鶏の手ほどきを受けた経験があったので、それを参考にした。まず、狭い檻で高栄養の飼料を与えられ、卵製造機のように飼われていた彼らを、一日絶食させる(人間のダイエットにプチ断食というのが流行したが、それと似ている)。そこから、麦粒や米ぬかや雑草や残飯などから作った餌に少しずつ慣らし、柵で囲った地面に放して飼う「地鶏」にしていった。羽が抜けて自力歩行もままならぬ「廃鶏」は、ひと月もすると、駆け回り、羽ばたき、自力で草の種や虫をついばむ、元気な「地鶏」になる。卵もそれなりに産んでくれた。

 「神に逆らう者が弱い民を支配する。指導者に英知が欠けると搾取が増す。奪うことを憎む人は長寿を得る。」(箴言2815-16節より)

農家も家畜も、命をすり減らしている。大量生産大量消費が蔓延するこの社会の、奪う仕組みを、なんとかして少しでも変えたいと願う気持ちは今も変わらない。 (中沢麻貴)