牧師室より

イースターおめでとうございます。

棕櫚の聖日からはじまる受難週に、金曜日の受難日まで、毎日祈祷会がある日々を過ごすのは、とても久しぶりでした。イエス様の十字架への道を、日々聖書でたどり、祈りながら一週間をすごし、その先にある復活日を迎えることができたことを感謝しています。

 信徒の方々のお話を、毎日うかがうことができたのは、何よりの恵みでした。おひとりおひとりの言葉の、なんと率直なことか。ご自分の言葉をもって聖書に向き合っておられることが、それぞれ感じられ、非常に好感を持ちました。受難週なので、楽しい、と表現することは、はばかられましたが、今日はどんなお話が聞けるかと、毎日祈祷会の時間を待ち遠しく感じました。信仰深さを取り繕わず、互いに安心して、ありのままの姿で教会生活をおくれるのが一番だとしみじみ思いました。

 ありのままの姿ということで、与えられた気づきがありました。先週の子どもの教会の礼拝では、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と、イエス様が十字架上で叫ばれる箇所(マルコ1534)が取り上げられました。受難週を過ごしながら、その悲痛な叫び声のことがずっと胸の内にありました。そして、ふと気づきました。わたしたちは、心底苦しい時には、神様に向かって絶叫することがゆるされているのだと。イエス様は、神様に向かって、あられもなく叫ぶ気持ちを、よーくご存じの方として、私たちの傍らにいてくださる方なのだと。

 見捨てられた者として絶叫し、墓に葬られた方が、復活されました。私たちも、その命にあずかり、自らも新しくされた者として、このイースターから歩み出したいと思います。

 私たちの世界は、たくさんの叫び声に満ちています。耳を塞がずに、その声のあるところをしっかりと見極め、主がなさってくださるように、その声に寄り添う者となりたいです。

(中沢麻貴)