牧師室より

教会に直接仕える、私47の牧師生活は終わる。洗礼を受けてから今日までのことを思い起こす。

高校三年生の時、初めて教会に行き、牧師に薦められ聖書を読んだ。神話と寓話の物語だと思ったが、記された内容、メッセージに心を奪われた。全知全能の神が提示され、その神の前で、うごめく人間模様に、興味津々になった。そして、新約聖書のイエスも歴史的事実を書いたものではなく、イエスを信じる著者たちの信仰表現だと思った。しかし、イエスの凄まじい愛に惹かれた。パウロの心の裏側を見抜く精神の深さにも感銘を受けた。生きる意味と方向性を失っていた私には、経験したことのない衝撃であった。聖書が告げる神と、イエスの愛を信じることができれば、生きることができると思った。洗礼を受け、牧師になろうと決心した。

神学校受験資格取得のため、一年浪人し、教会生活を励んだ。入学を許され、六年間神学を学んだ。親から反対され、支援がなかったので、週に56、家庭教師をし、勉強は電車の行き帰りと深夜であった。しかし、同じ使命を持つ仲間との学びは楽しかった。

卒業後、東京の下谷教会で副牧師になり、崎県の延岡三ツ瀬教会、埼玉県の熊谷教会で奉仕した。そして1983年に、当時「洋光台港南台伝道所」であった、現「横浜港南台教会」に赴任してきた。あの日から31年が経つ。それぞれの教会で、多くの人に支えられ、教えられてきたことを心から感謝している。

私は「牧師になる、牧師である」ことを求めて、懸命に生きてきた。牧師であるとは、聖書の解き明かしをし、キリストの福音を語ることである。それは、罪が赦され、神に生かされている事実を、身をもって証することであろう。言葉で言えば簡単であるが、実態は破れと挫折の連続であった。その破れと挫折を通して、神が「よし」としてくださる恵みを知らされてきた。人は皆、神の憐れみをいただき、人の助けを受けている。この喜びを感謝して生きることが信仰である。

イエス・キリストの十字架による罪の赦し、生きることの是認が福音の内実であるが、その福音は私の隣人にも、当然及んでいる。そこに、共にあることを目指す信仰者の使命がある。私は「平和」を祈り、求めてきた。これからは、戦前に回帰するような安倍政権に抗して、平和を実現する運動に力を注いでいきたいと思っている。