牧師室より

担任牧師として、4月から赴任される中沢麻貴牧師が説教に来てくださった。あいにくの大雪で、出席者が少なかったことは残念であった。ヨハネ黙示録320節の御言葉から「引きこもる戸の内へ」と題して話された。

麻貴師はクリスチャンホームで育ち、幼い頃から教会に通い、教会学校はもとより、教会は楽しい遊び場でもあった。小学校6年生の時、サマーキャンプに参加し、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」という御言葉に出会った。イエス様をお迎えし、共に食事をしたいという思いが募った。中学2年生の時、洗礼を受けた。精神的に、早熟なお嬢さんであったのであろう。それにしては、教師たちをロックアウトする迫力をお持ちであったという。

復活した主イエスは閉ざされた戸を通り抜けて、弟子たちにご自身を示しているが、黙示録の主イエスは戸口に立って、戸をたたいている。私たち自身の戸を開いてお迎えする応答を待っておられる。お迎えし、共に食事に与りたいが、そのためには、部屋をきれいに片付けていなければと思う。しかし、散らかった、ありのままの部屋にお迎えしてもよいのではないか。

学生時代、友人の突然の死に見舞われ、引きこもりがちになったが、実験動物のえさやりのため、外に出ざるを得なかった。主イエスの招きは外へ招き出されるのではなく、内へ来てくださる招きであることを嬉しく受けとめた。内に招き入れ、共に食卓を囲むところには、嬉しい対話と平安がある。教会は人をお招きし、主イエスと共に食事をする喜びの場であると話された。

ヨハネ黙示録の前半は、7つの教会に対する主イエスの言葉が告げられている。今日の御言葉はラオディキア教会への言葉である。ラオディキアは金融、繊維、医薬の盛んな裕福な町であった。しかし、哀れで、貧しく、裸の者であることが分かっていない。熱くも冷たくもない、なまぬるい状態を悔い改めよと言われる。私たちへの警告ではないかと、現在の教会への批判も語られた。

主イエスは内に入ってきて、あなたの生活の領域で「共にいる」と、言ってくださっている。分かち合う喜びを伝えていくような教会形成を目指したいと結ばれた。