牧師室より

毎年年頭に、教区の教職研修会が持たれている。今年は「臨床心理から見た牧会者像〜牧師・臨床心理士としての歩みから〜」という主題であると聞き、興味を持って参加した。

最近、牧師たちが精神を病み、仕事ができない状況が、多々見られると聞く。その問題に対して研修会が企画されたのであろう。

久ヶ原教会牧師で、臨床心理士をしている藤崎義宣先生が講演された。臨床とは病床に寄り添い、ケアすることであるという話から始められた。人は危機に陥る時、魂の存在に気づき、深いうめきを発する。そのうめきを聞き、対話し、理解し、ケアすることが牧会である。英語のunderstand(理解する)は下に立つことであり、病者の心に寄り添うことの大切さを力説された。熱心な牧師ほど、事柄に埋没していく。埋没してしまうと、見えなくなり、自分自身を失っていく。そこには、自分で解決していこうとする思いあがりがある。私にも覚えがあるが、バプテスマのヨハネの言葉「あの方(イエス・キリスト)は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉によって、解放された。自分の微力さを知り、事柄との間に距離、バランスを保ち、適切な他の支援を受け入れ、最終的には、神にゆだねることである。うめき、苦悩に対し、即答を求めがちだが、苦難が忍耐と練達を生み、そこから洞察力や知恵を得て、希望につながっていく過程が大切であると話された。牧師たちの諸々の体験が語られ、牧師像を共有できたことは嬉しいことであった。

WHO憲章は、健康を「肉体的、精神的、社会的」に満たされた状態にあることとしていた。1998年、それに、「spiritual(霊的)」という字句が付加された。それは、イスラム圏からの要望であったという。イスラム圏からの要望であったと聞き、驚いた。イスラム教は生活の全てに亘って、神との関係を重視している。人は見えない世界との関係性によって、健康が保たれるという指摘は重要である。ただ、spiritual(霊的)が捻じ曲げられ、オカルト的に用いられる状況は、注意しなければならないと思う。