牧師室より

鈴木和男編・訳『あなたもお読みでしたか 日々の聖句(ローズンゲン)によ366日の聖務日課 神学歳時記T』を贈っていただいた。

日々、聖書を読み、祈ることを勧めたローズンゲンは、15世紀頃、「ボヘミア(モラビア)兄弟団」と呼ばれるプロテスタントの信仰共同体の一つ、「ヘルンフート(主の守りの意)兄弟団」の人々の間で、日々の共同生活の合い言葉(ローズング)として、短い言葉が挙げられることから始まった。18世紀、ニコラウス・ルートヴィッヒ・フォン・ツィンツェンドルフによって、一年分の冊子で発行され、現在、56ヶ国語で愛読されているという。

旧約聖書、新約聖書の短い聖句を挙げ、祈りが書かれている。その祈りは、古代教父から、現代までの様々な信仰者の祈りである。

「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」。(創世記128節)の御言葉に対し、フヨードル・ドストエフスキーは、驚くような純真な祈りをしている。「神の創造のみわざの全てを愛するのだ。地球全体はもちろん、極小の砂粒までも愛するのだ。木々の葉のゆらぎ、すべての日の光をも愛するのだ。そうする時、それらの中に、神の秘義が、あなた方に対して明らかになるのだ」。

聖句と祈りが対になって、心を神に向けるように促されている。

編・訳者の鈴木先生は、「黙想と神学歳時記」を書き加えている。鈴木先生の言葉が、また素晴らしい。かつて、鈴木先生が著した『徒労に賭ける』を読んだ時、言葉の美しさと力強さに深い感銘を受けた。今回、「黙想と神学歳時記」を読んで、キリスト教の歴史の長さと深さを改めて知らされた。そして、自分の心の貧しさを痛切に感じた。貧しさとは信仰の弱さで、それは罪認識の浅さである。罪に対する認識が深まる時、圧倒的な神の恩寵を受けとめることができる。

預言者イザヤは、神殿で神に出会った時、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」と震えている。ペトロはイエスに聖なる神を見た時「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫んでいる。パウロは「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と書いている。

祈りに導かれる信仰は、自分の罪におののき、神の絶対的な恩寵にすがるところで起こる。

代々の信仰者たちは罪に震えながら神の恵みを受けとめ、真摯に祈り続けたことを知らされ、心が洗われるような思いであった。皆さんにも、お読みすることを勧めたい。