牧師室より

旧約を読む会は、出エジプト記の16章まで読み進んできた。エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエル人の苦しみの叫び声を、神は聞かれ、モーセを民族解放の指導者として召し出した。固辞するモーセに「わたしは必ず、あなたと共にいる」と語り、神の偉大なしるしを示し、無理矢理に立たせた。

 モーセと兄・アロンはエジプト王・ファラオに礼拝のための出エジプトを申し出るが、底辺労働者の奴隷がいなくなると、国家は存立できないので、ファラオはかたくなに拒み続ける。神は、いくつもの災いをエジプトにくだすが、頑として承諾しない。絵になる物語である。

 最後に、主の過越の出来事が起こる。主の過越とは、小羊の血が柱と鴨居に塗られた家はイスラエル人の家の印になり、主は過ぎ越す。血が塗られていない家はエジプト人の家で、主は侵入し、王家から捕虜、家畜に至るまで、初子をことごとく撃った。初子殺害の事件によって、ファラオは出エジプトを承諾する。

 この過越、初子虐殺が歴史的事実であるなら、テロリズムであろう。神は、昔から今も、直接人を殺すことはされない。殺したのは、明らかに人間である。奴隷の人口爆発を恐れたエジプトは、イスラエル人の男子が生まれた場合は、ナイル河に投げ込み、抑制措置を取った。また、レンガ作りに際し、わらを与えずに規定通りの生産量を強制した。イスラエル人の怒りは頂点に達した。彼らは、固い秘密結社を作り、用意周到にエジプト人の初子殺害を決行したのであろう。イスラエル人が執念深い民族であることは、聖書を読めば分かる。抑圧され、幼児の命まで奪われた彼らがテロに走ったことは容易に想像できる。聖書は、これを「主の過越」と言って、神の業と告白している。人類史の中で最初に記されたテロリズムだと私は思っている。

米国で起きた「911 同時多発テロ」以来、テロは問答無用の「悪」と断罪され、テロへの暴力的制裁が正当化されている。それによって、無辜の人々が殺害されている。一般市民を巻き込む宗教間の無謀な、理解できない自爆テロもある。しかし、力の違いが大き過ぎて、異議申し立ての発言や行動のできない人々の悲しみ、苦しみがテロを生み出していることは事実である。暴力での撲滅は不可能であろう。テロの標的にならないような民族関係、国際関係を築くことが先決ではないか。