牧師室より

旧約聖書の詩編147編の詩人は「ハレルヤ、主を賛美せよ」と歌い始めている。奴隷の屈辱を強いられたバビロン捕囚から解放された。憧れのエルサレム神殿は再建された。詩人は神殿の中で、主は力強く、その英知の御業は数知れないと大きな喜びをもって歌っている。その主は貧しい人を励まし、大地に雨を降らせ、人間や羊を襲う獣や、汚れた烏にも食べ物を与えてくださる。神の偉大さは、小さく弱い者、更に、敵対し意味のないように見える動物をも守ってくださる。そして、「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく 人の足の速さを望まれるのでもない」、強さ、速さが神の喜び、望みではないと歌っている。

岩波書店は228名の論者を得て、『これからどうする 未来のつくり方』を編集、出版している。日本の未来について、多くの人が案じ、考えている。私は、この本を読み、二つのことを考えさせられた。一つは戦後、日本は戦争責任について十分に問うてこなかったことである。責任を曖昧にしてきたため、事実を踏まえた歴史認識を形成してこなかった。この不誠実が無責任という文化を生んできた。それは、世界から理解されず、孤立化を招く。

もう一つは戦後の経済に対する考えである。廃墟と化したところからの再建は、当然であるが、ひたすら経済成長を追い続けた。世界史でも、稀に見る成長を達成した。その栄光が忘れられず、強さと速さを追い求め、「日本は正しい、強い国」だと言い続けようとしている。

「戦後レジームからの脱却」と言うが、上記二つからの脱却が日本の未来を作っていく。私は、人権大国、平和大国として歩む道筋を進むべきであると思っている。

詩人は「主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人」と歌っている。主は「恐れる」のではなく「畏れる」方である。そして、主の慈しみを待ち望む。主を畏れ、待ち望む者は、主の慈しみに与っている者として、共にあろうとする。

詩人は、奴隷からの解放と祈る神殿を与えられた喜びの中から、神信仰のあり方を歌っている。私たちも強さ、速さを求める生き方から、共に生きる真の豊かさに価値を見出すことに転換すべきではないか。