牧師室より

私は、何冊かの雑誌を継続的に読んでいる。何年前からとは言えないが、かつての雑誌の論文には、思索、理念、哲学があった。人間とは何か、そこで形成されている文化とは何か、歴史とは何かが論じられていた。時代を深く捉える知性があった。ところが、最近の雑誌の論文は、表に現れた現象を、分析、評論するだけの浅薄なものになっているように思う。表に現れた現象の背後には、それを必然的にしているものがあり、それを的確に見極めることこそが大切であって、論ずべき事柄である。

マスコミはどうでもいい情報をもっともらしく伝え、テレビは深刻なニュースを面白おかしい演芸のように報道している。大事と小事の判別がつかなくなっている。そして、今の時代、情報を多く集めた者が物知り顔をし、時代の先端を走っているように錯覚してしまう。更に、情報以前の「空気」に踊らされているのではないかとさえ思う。「人間不在」の架空を流されているのではないか。

情報屋であることを嫌い、人間の原点を問う思索家へと転向した辺見 庸氏は『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』の中で、下記のように書いている。「だから、何度もいっているのです。人間とは何か。人間とはどうあるべきかと。何回も何回も、いまだからこそそこに立ちかえって、反復してそのことを思索しなければならない。」

先の参議院選挙の結果には落胆以外の何ものもない。アベノミクスの経済最優先に押し流されてしまった。命を守る原発問題、平和を実現する憲法問題などの論点があったはずである。

岩波書店編集部は各ジャンルから228人の論者を得て、『これから どうする 未来のつくり方』を編集、出版している。一人がA4 版で1頁半ほどの主張であるが、短いから面白い面もある。

東北大学名誉教授の宮田光雄先生が「人権を担う勇気が問われている」と題して寄稿している。日本国憲法の97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」という最も重要な条文が、自民党の「日本国憲法改正草案」には削除されていることに、驚かされたと書いている。そして、「人間をして人間たらしめるものはこの『われここに立つ』という内的真実さにほかならない。これこそ、見通しの立ちがたい暗い現実の只中でも、既成事実に屈しないで、新しく状況を切り開く希望と勇気とを生み出す目には見えない精神的源泉ではなかろうか」と結んでいる。

辺見氏がいう「鵺のようなニヒリズム」に無為に流される状態から、マルチン・ルターが神の前で叫んだ「われここに立つ」という主体性の構築、そして、互いの人権(平和に生きる権利)を確認し合うところに新しい社会、歴史が生まれてくるのではないか。