牧師室より

聖書には「残りの者」という深い信仰がある。預言者エリヤは、繁栄の神・バアル礼拝者たちと闘い、勝利するが、彼らに命を狙われ、ホレブの山に逃亡し、恐怖に震えていた。そこで、神の静かにささやく声を聞く。エリヤは、バアル礼拝者たちによって、イスラエルの神信仰は破壊され、預言者も殺され、私一人になりましたと苦境を訴える。そのエリヤに神は「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」と答え、信仰を全うする者を残すと言われる。

全てを押し流していく激流の中で、真理に立ち続ける「残りの者」が残されるという信仰は預言者たちによって、確実に受け継がれている。イザヤは「残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に」と言い、エレミヤは「主よ、あなたの民をお救いください。イスラエルの残りの者を」と言い、アモスは「万軍の神なる主が、ヨセフの残りの者を憐れんでくださる」と言っている。時代は苦悩のどん底に落ち込もうとも、神は「残りの者」を次の時代の希望となるように残してくださる。

パウロも、同胞への福音宣教が受け入れてもらえない状況の中でエリヤの信仰に倣い「イスラエルの残りの者」が神によって立てられていると希望を語っている。

ヒトラーが台頭してきた時、「バルメン宣言」を出した牧師、信徒のグループは、現代の「残りの者」ではないかと、私は思っている。ヒトラーのドイツ人の血と国を誇り、他民族を蔑む思想、行動はドイツ人を席巻し、ドイツ・キリスト者の群れもヒトラーを神の使いであるかのように飲み込まれていった。その中で、「バルメン宣言」はキリスト以外のところからの啓示は一切認めないと、ヒトラーへの不服従を宣言した。

ドイツ・ナチズムを倒したのは「バルメン宣言」ではなく、連合軍の軍事力であった。この世で信仰、思想は誠に微力である。しかし、ドイツは「バルメン宣言」や戦後すぐに出した「シュツットガルト宣言」などの信仰によって、戦争責任をきちんと捉え、世界を納得させる責任を果たしていった。「残りの者」が次の時代を切り開いていくのである。