牧師室より

信教の自由は、自由の概念の中核を占めている。大日本帝国憲法では、二八条で下記のように規定している。「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」 この条文によって、国家の意思に反するとして、幾多の宗教団体が弾圧された。信教の自由は全く保障されていなかった。

日本国憲法の二十条で下記のように規定している。「@ 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。A 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。B 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」明治憲法を改め、厳密に、信教の自由を保障している。

自民党が提示した「憲法改正草案」は、第二十条で下記のように規定している。@ と A に関しては、日本国憲法と同じであるが、B が問題である。「 B 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教教育的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。」社会的儀礼、習俗的行為は宗教とは見なさないと言っている。戦争中、神社参拝は「社会的儀礼」であるとして強要された。靖国神社参拝は習俗と見なされる。これでは、信教の自由は保障されず、大日本帝国憲法に戻ることになる。

 第十三条(人としての尊重等)は危険な条文である。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」個人が尊重され、幸福を追求する権利は公益及び公の秩序に反したところでは認められないと言っている。「公益及び公の秩序」に反するかどうかの判断は権力が決めると言っているのではないか。憲法は権力者を縛るものであるが、権力が国民を規制するものになっている。自民党の「改正草案」は民主化に逆行している。