牧師室より

昨年8月に行われたシンポジウム「福島原発で何が起きたか ― 安全神話の崩壊」の記録を編集したものが、岩波書店から出版された。1.福島第一原発で何が起こったか、2.放射能汚染の現状、3.日本の原子力政策と安全神話の形成、4.核をめぐる科学・技術のあり方、と四つのテーマで報告、議論されている。

東京大学の高橋哲哉氏の「犠牲のシステム−責任をめぐる一考察」を興味深く読んだ。高橋氏は、原発を一つの「犠牲システム」として捉えている。「犠牲システム」とは「ある人々の利益が別の人々の生活、生命、健康、日常、財産、人としての尊厳、生きる希望などを犠牲にしてのみ生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされる者の犠牲なしには生み出されず、維持されない」ことだという。そして、原発は四つの主要な犠牲を含んでのみ成り立っている。第一に、過酷事故によってもたらされる犠牲。第二に、原発作業員の被曝労働という犠牲。第三に、ウラン採掘の際の被曝労働や環境汚染による犠牲。第四に、放射性廃棄物による被曝の犠牲。

高橋氏は福島県で生まれ、高校卒業まで福島県内を転々としていた。大学入学以来、40年近く首都圏で暮らしてきた。自分の故郷にこれほどのリスクを背負わせながら、そこから送られてくる電力の利益だけをのうのうと享受して暮らしてきた。311以後、自分はそういう人間だったのだということを痛感させられている、と語っている。

京都大学の小出裕章氏は、原発は弱者の犠牲の上に成り立っている「差別」が根幹にあると書いている。高橋氏は哲学者として政治、社会、歴史の諸問題について多角的に論じている。小出氏は原子力専門の科学者として反原発を訴えている。両氏は原発を同じ視点で捉えている。

弱い立場に追いやられている人々を犠牲にして、利益や豊かさを享受する社会のシステムは、どこででも見られる。沖縄が全くそうである。日本の安全のために構造的な差別の中に置かれている。福島と沖縄が同列に論じられていることが多い。人間の深い罪の問題である。