牧師室より

中島岳志氏は『週刊金曜日』の編集委員の一人である。同誌に「『怒りの声』を『静かな祈り』に」と題してコラムを書いている。

毎週金曜日の夕方、首相官邸前で「反原発」を求める集会が行われている。それは、非暴力直接行動として呼びかけ、集まっている。ところが、そこで「野田、出てこい」「こら、官邸の中のやつら、聞いてんのか!」という怒号が飛び交っている。中島氏は、非暴力は「物理的暴力」だけに限定されるのだろうかと問いかけている。

「非暴力」という言葉には、非暴力でインドにイギリスからの独立をもたらしたガンディーが想起されているだろう。ガンディーは下記のように語っている。「真に勇敢であるならば、そこには敵意、怒り、不信、死や肉体的苦痛への恐れは存在しない。このような本質的な特性を欠いている人々は、非暴力ではない」。物理的暴力がない状態が非暴力ではなく、正義にコミットすることを求め、敵意や怒りを乗り越えることである。非暴力行為を通して、「魂の変革」をもたらし、他者の中に潜む「善」を引き出すことである。そこには敵も味方もなくなっている。

石牟礼道子氏の水俣病の苦悩を著した『苦界浄土』を読んだ時、私は衝撃を受けた。その水俣闘争においても、暴力的な場面もあったが、最後は互いが「魂の変革」に辿りつき、和解が成立した。

最近、石牟礼氏が『週刊金曜日』で、エッセイストの田中優子氏と「毒死した万物の声に身悶える」と題して、人間のあり方について、深い対談をしている。その中で、下記のように語っている。「私は逆に、絶望が拡がって、若い人たちが何にも希望が持てなくなってしまった時に、初めて祈り始めるんじゃないかと、そういう若い人が出てくるんじゃないかと期待しております」。

中島氏は、ガンディーの思想と石牟礼氏の言葉は深いところで繋がっているという。そして、絶望的な指導者たちの施策によって、絶望が待ち受けているだろう。「その時、私は少し祈ってみようと思う」と書いている。

私は、見える現象に振り回されて、正義とばかりに怒りを爆発させるのではなく、人間存在の根底を捉えて、考え、行動することが求められているように思う。それは、祈りにより生み出されるのではないか。