牧師室より

教会暦に従って説教をしているが、今年のアドベントに「終末信仰」に関する箇所が三回あった。マタイ福音書25章のすべての国民を右と左に分ける終末時の裁き、パウロのローマ書1311節の「救いは近づいている」、そして、今日のフィリピ書45節の「主はすぐ近くにおられます」の御言葉を与えられた。

聖書には、終わりの裁きの日、イエス・キリストは雲に乗って、再臨すると神話的表現で記されている。パウロをはじめ、初代教会においてはこの終末信仰は、リアリティをもって信じられていた。「マラナ・タ(主イエスよ、来てください)」は切なる願望であった。

歴史の終わりは諸々の出来事による人類の滅亡、宇宙的な異変による地球の崩壊など、科学的類推によって語ることは可能であり、それなりの説得力もある。

聖書が告げる終末は神による歴史の完成である。「初めに」全能の神は天地を創造された。ならば「終わり」をもたらしてくださる。その「終わり」は全き救いを与えてくださる喜びの日である。教会はこの信仰に立ってきた。世の知恵から見れば、愚か、妄想かも知れないが、喜びの日を待望する終末信仰が、今の苦難に耐え、真に生きる力となる。

イエス・キリストの十字架と復活によって、罪赦され、神と共にある救いが「既に」与えられている。しかし、その救いは「未だ」完全なものではない。「既に」と「未だ」の「中間時」を私たちは生きている。中間時にある私たちは、歴史の完成、全き救いの成る日を信じ、望むから、現実は暗闇であっても、光の中を歩むことができる。また、主において喜ぶ生き方が可能になる。現代の暗さの中で終末信仰はリアリティをもって受けとめられるのではないか。